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  ガンディーの想い

上流階級出身のガンディーが、労働者と同じ一枚の布を纏い、自ら糸車を操って訴える姿はあまりに有名です。

イギリスからの独立運動の最中、「カディ(手織り手紬の布)はただの布ではなく思想である」と説き、カディを織り、着ること、売ること、買うことが民族の誇りであると、民の精神を鼓舞し続けたのでした。

「この国において手仕事は、富を持たない人が、貧困から抜け出す為の重要な要素となる」。「たとえ高等教育が受けられずとも、糸が紡げればお金を稼いで生きていくことが出来る」と。

  ガンディーの軌跡

1869年にインド西部のグジャラート州に生まれました。
イギリスで教育を受け、南アフリカにあるインド系企業の顧問弁護士として働きました。
そこで激しい人種差別政策(アパルトヘイト)を目の当たりにし、自らも有色人種として厳しい人種差別を受けた経験から、
法律家として差別撤廃のため奮起していきます。

20年近くを南アフリカで過ごした後、第一次大戦最中の1915年にインドへ戻りました。
その頃のインドでは国民会議派が民族の独立を訴え、イギリスとの間で公約された、戦後の独立に向けて同国の西部戦線を支持し、協力していきました。
しかし、その協力との交換条件とされていた独立の公約が反故されると、ガンディーはイギリス製のスーツを焼き捨て、自らチャルカ(糸車)を回し糸を紡ぎ、機で織った綿布を纏ったのです。
その布を「カディ」と呼んだのでした。

カディという、かつてどのに村でも織られてきたような素朴な布を纏ったガンディーは、たちまち知識層の心を集め、サティグラハと呼ばれる非暴力・不服従運動を繰り広げるようになります。
それまで分割統治政策によって大多数のヒンドゥー教徒の対立を煽られてきたイスラム教徒も、その清廉な姿と運動の普遍性に共感しました。
宗教の壁を越えて、インドが団結することに成功した原動力でした。

その後、有名な「塩の行進」などを経て、ガンディーは知識層のみならず、民衆の強い支持を集めるようになります。
イギリスは彼の懐柔を試みましたがガンディー応じず、やがては反乱罪で逮捕されてしまいます。

1934年には運動終結宣言をしましたが、その後第二次世界大戦が始まり、1940年には国民会議派がサティヤグラハの運動を再開します。
そうして独立運動の火は焚き続けられた。

その後、ガンディーは国民会議派に所属する人民の代表者のひとりとしてイギリスとの交渉を重ね、武力を伴わない独立への道を模索します。
しかし、独立を目前にしてヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立が激化し、ガンディーの訴えも虚しく、インドとパキスタンは分かれて独立したます。

平和主義思想ゆえに、極右のヒンドゥー教徒の凶弾に倒れたガンディー。

ただ、彼の掲げたカディの思想は今もインドのみならず、世界中で人々の心に生き続けているのです。


参考資料:『CALICOのインド手仕事布案内』小林史恵著   『インドの更紗手帖』田中敦子編著